凸凹を生きる〜変な子に生まれて

(2018/10/23:猫と靴下のかたっぽというブログ名から変更しました)一人(半人前)と一匹で考える発達障害のこと、福祉のこと、喜びも怒りも

大学入学と〇〇を並列で語られてショックを受けた話

覚えてるうちに書き残しておく。

私はそもそも通信大学に行きたいという話を親にするつもりはなかった。そんなお金があるとは思ってなかったから。そんな時親側から「車の免許を取りたいと思ってるならその費用は出してあげるよ」と打診があったのだ。

車の免許は取りたい。でもそんなお金があるなら、それよりも通信の大学に入りたい。自分の計画を前倒しできる!と思ってそう話を持ちかけたのです。

で、前記事

 

pdd.hatenablog.jp

 

のように全否定されたわけですが。

その中で私が一番傷ついた言葉を残しておきたい。今後子どもを生む生まないにしろ、人と会話をするときに自戒できるように。

「30万なら出せるよ!来年の旅行を諦めればいいだけだから!」

この言葉のニュアンスですが、うちはほんとに貧乏で、貧乏な原因が父の多大な借金だと10数年越しに発覚して慌てて債務整理をし、百万単位のお金が超過分として戻ってきて。そこでリセットできた為に貧乏は貧乏なりに年に一、二度の夫婦旅行を楽しめるようになりまして。良かったなと思ったし、母も旅行をほんとうに楽しんでいるしその為に日々の仕事を頑張っていると言っていたこともあったので、母にとっての旅行の位置付けがとても高く大きなものだというのは理解してました。

しかし「子どもの大学入学費用の一部」と「余暇の旅行」とを並列で語られることに大きな違和感とショックを感じて、それ以上話をすすめることができなくなりました。

あの年旅行を我慢したのに、大学に行かせてもなんの結果も出ないと後々語られることになったらどうしようという恐怖を拭えませんでした。

何かと並列してものを語るとき、お互いの価値観の違いが大きいほどチグハグになってしまうんだなと思いました。大事だと思っているものを侮辱することにもなりえるんだなとわかって、すごく気をつけようと思いました。そして、申し訳ないけれどそんな親に対して愛情や敬意を持って接することはもうできないと思う。「車の免許」にお金は出せても「望む大学費用」には出せず、「自身の余暇の旅行」には出せるお金に対する価値観。私とはあまりに違いすぎている。なんていうか、「比べる」ってすごく危ないことだなってわかった。相手にわかりやすく価値観を図られてしまう。

今後も毎年、両親が旅行に行く度に「私の教育に対する思いは、この旅行一回分に負けたんだ」と思い出すと思うと、もう親を好きになれない。居ないものと思いたい。