凸凹を生きる〜変な子に生まれて

(2018/10/23:猫と靴下のかたっぽというブログ名から変更しました)一人(半人前)と一匹で考える発達障害のこと、福祉のこと、喜びも怒りも

コンサータを、ストラテラを、飲んで変化した自分は自分なのか問題

ストラテラを飲んで数年、コンサータを飲んで数カ月になります。

ストラテラを飲んで「感情がフラットになる」感覚を生まれて初めて味わいました。自分がいかに、今まで激しい起伏の波の中で揉まれるように溺れるようにギリギリの中で生き延びてきたかを実感し、また健常者はこんなに冷静な感覚を常に持ち合わせているのか!とずるいなと思ったりもしました。

このフラットな感覚は就労し続けるという点においてとても有効です。事実ストラテラを服用している状態の今が、今までで一番長く就労に定着できています(もうすぐ3年)

働くことは嫌なことの連続で、それを我慢する対価が給料だと思っていたのですが、今まではその我慢ができずに転職を繰り返していました。でも今はそもそも苦痛が伴うほどの我慢を感じないというか、「好き」「嫌い」の二極だった私の中に「どっちでもいい(どうでもいい)」という選択肢が初めて生まれたという感じ。沸点に達することが極端に減ったのです。

しかしいいことばかりではありません。「好き」の沸点にも達しなくなったことにより、創作意欲や行動意欲も極端に減ってしまったのです。物づくりが好きでありとあらゆる手芸に手を出し、ちまちま何かを生み出すことが好きだった私はどこかに消えてしまいました。時間がすぎるのも忘れて何かに没頭するという刺激的な時間を、最後に感じたのはいつだっただろう。

私は感情が豊かだったと思います。そんな自分に振り回されて疲れきっていた反面、でもそれが自分そのものだったし愛おしかったです。今の自分はとても生き易いことは確かですが面白みに欠け、こんな人生が数十年続くのかと思うと絶望を感じたりもします。

好きなことを「好きだ!」と強く感じ、溢れるあまり行動や創作にぶつけていたときの自分にはもう戻れないのかな。生きること、働くことにシフトさせた自分を「これが自分なんだ」と受け入れていくことが幸せなんだろうか。薬を、もう手放せないのだろうか。

薬を飲まず、上手に働けない自分も自分だったのではないのだろうか。そのままの自分でも生きていける道を探る手立てはなかったのか。

薬をやめたい。でもやめたくない。ふとこのループにはまって抜け出せなくなるときがあります。そもそも発達障害って病気なんだろうか。障害なんだろうか。矯正すべきものなのでしょうか。